●再開第二弾 : コンテ・ディ・カヴール級戦艦
コンテ・ディ・カヴール級戦艦は、イタリア海軍が建造した弩級戦艦です。
一番艦コンテ・ディ・カヴール Conte di Cavour は1915年、二番艦カイオ・ジュリオ・チェーザレ Caio Guilio Cesareと三番艦レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinciは一足早く1914年に就役しています。
本級は前級のダンテ・アリギエリ Dante Alighieriに続いて、オーストリア・ハンガリー帝国が建造していたフィリブス・ウニティス Viribus Unitis 級戦艦に対抗すべく建造されました。
フィリブス・ウニティス級は世界最初の三連装砲搭載戦艦として就役し、4基を前後に背負い式に配置していました。
これに対してダンテ・アリギエリは三連装砲塔4基を艦首・(艦橋)・艦橋直後・(煙突)・煙突直後・(後檣)・艦尾に分散配置していたため、同等の火力ながらフィリブス・ウニティス級よりも全長が長くなっていました。
全長に差があるにもかかわらず排水量はほぼ同等であったため、必然的に防御重量はダンテ・アリギエリが軽くなっており、実際に舷側主装甲帯がダンテ・アリギエリの245mmに対してフィブリス・ウニティス級では280mmと、若干防御面で劣っていました。 (尤も、ダンテ・アリギエリ級自体は同世代・同等サイズの12インチ砲搭載弩級戦艦としては平均的な装甲厚であり、フィリブス・ウニティス級がかなりの重装甲艦ということもあります。)
このため、フィブリス・ウニティス級を凌駕できる戦艦として建造されたのがコンテ・ディ・カヴール級 (とその改良型カイオ・デュイリオ Caio Duilio級) です。
本級ではダンテ・アリギエリから火力の向上が図られた結果、三連装砲塔3基と連装砲塔2基を搭載して前級より1門多い13門艦となりました。
装甲に関しては前級と同等の舷側主装甲帯250mm、速力は22ノットと当時としては快速艦であり、2万トン級の戦艦としては有力艦でした。
本級3隻は第一次大戦初期に就役し、ダンテ・アリギエリやカイオ・デュイリオ級戦艦などと共にイタリア海軍の中核として活動していますが、海軍の基本戦略としてオトラント海峡を封鎖し、オーストリア・ハンガリー艦隊を地中海に出さないようにする、と言うものであったため大海戦に参加することなく終戦を迎えています。その一方で1916年にレオナルド・ダ・ヴィンチがタラント港内で謎の爆沈 (オーストリア側の破壊工作とも) により再起不能となっています。
第一次大戦が終結すると、軍縮条約と国家財政の悪化により1920年代末からはイタリア海軍の活動は低調となり、ダンテ・アリギエリは廃艦、残る4戦艦も次々と予備役、あるいは練習艦となってしまいました。
この状況が一変したのは1930年代初頭。丁度欧州建艦競争の幕開けの時期で、イタリア海軍はドイツ装甲艦' (のちにはフランスのダンケルク級戦艦) に対抗可能な新型艦の建造を模索していました。
これにより、1932年には基準排水量18,000t、26ノット、13.5インチ砲6門の装甲艦の拡大型というような艦が提案されています。
翌年の1933年には基準排水量26,500t、29ノット、舷側主装甲帯250mm、13.5インチ砲8門というダンケルク級と似たような要目の巡洋戦艦が提案されていましたが、フランスがダンケルク級戦艦の建造を発表したことから方針を転換し、比較的短期間で実現可能な旧式戦艦の改装が行われることとなります。
その第一陣としてコンテ・ディ・カヴール級の2隻が改装を受けることとなりますが、この改装は日米英戦艦で実施された大改装工事よりも更に大がかりな物で、主砲撤去による機関スペース拡大、主砲口径拡大、艦首延長、上部構造物の一新などが実施されています。
この改装工事によりコンテ・ディ・カヴール級は32cm三連装砲2基、同連装砲2基の10門艦となり、火力面でダンケルク級とほぼ同等 (一斉射の投射量はカヴール級5,250kgに対しダンケルク級4,480kg。但し射程、貫徹力でやや劣る) になり、水平装甲の強化により防御面でもほぼ対等といえる水準まで引き上げられています。
更に、本級とカイオ・デュイリオ級の改装で最も強化された面は機関関係であり、機関出力は31,000hpから3倍の93,000馬力に向上。速力も22ノットから28ノットと格段に高速化しています。
本級の改装工事は1933年~1937年にかけて実施され、この設計により得られた経験は新戦艦 (のちのヴィットリオ・ヴェネト級) にフィードバックされています。
第二次大戦参戦時にはカイオ・デュイリオ級はまだ改装中。ヴィットリオ・ヴェネト級もヴィットリオ・ヴェネトとイタリアが就役間もない頃で実質戦力ではなく、本級2隻のみで英地中海艦隊と対峙することとなります。
1940年7月のカラブリア沖海戦ではカイオ・ジュリオ・チェーザレが英艦隊を退けるなど活躍を見せますが、同年11月の英空母イラストリアスによるタラント空襲によりコンテ・ディ・カヴールは大破着底してしまいます。この他リットリオとカイオ・デュイリオも着底してしまい、イタリア戦艦は一晩で可動戦艦が6隻から3隻に減ってしまっています。
この後のイタリア艦隊は燃料不足の深刻化にも悩まされることとなり、艦隊戦闘に参加する戦艦は新鋭のヴィットリオ・ヴェネト級2隻にとどまり、残る4戦艦は予備役に編入されてしまいます。なお、コンテ・ディ・カヴールは翌1941年に浮揚されたものの資材不足などにより修理作業は中止され、以後艦隊に復帰することはありませんでした。
カイオ・ジュリオ・チェーザレ他2戦艦は1943年に本土決戦の危機が迫ったことから浮き砲台として再整備されましたが、同年9月のイタリア降伏に伴いマルタ島などに脱出しています。修理が放棄されていたコンテ・ディ・カヴールはトリエステ港で自沈処分されていますが、後にドイツ軍の手により浮揚されています。コンテ・ディ・カヴールは最終的に1945年2月に米軍の空襲により撃沈され、その艦歴に終止符を打っています。
カイオ・ジュリオ・チェーザレは1944年にイタリアに返還されていますが、戦後の1949年に賠償艦としてソ連に引き渡され、ノヴォロシースクとして黒海艦隊に編入されましたが1955年にセヴァストポリ沖にて爆沈、本艦もまたその艦歴に終止符を打っています。